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Woody Days

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木とともに暮らす日々Woody Days

あの日の想い出と共に

取材・執筆/それからデザイン 写真/杉能信介

年が明け、キリリとした冬の寒さが身に染みる1月某日。
埼玉県狭山市までやってきた。西武新宿線・狭山市駅から、車で10分。
閑静な住宅街の路地を進んだ先に、堀(ほり)邸がある。

遮るものが何もない、青空が気持ちいい日だった。

 

2016年9月に家を建てた堀さんご家族。 ここで暮らしているのは、お父さんの浩喜(ひろき)さん、お母さんの喜久子(きくこ)さん、娘の真理子(まりこ)さん、祖母である松枝(まつえ)さん、それにミニチュアダックスフンドの愛犬・カルアだ。

 

堀さんご家族は、もともと福島県双葉郡で暮らしており、居酒屋「四季旬彩 源喜(げんき)」を営んでいた。 お父さんの浩喜さんが調理担当、お母さんの喜久子さんが配膳を担当。娘の真理子さんもお仕事のかたわらお店の手伝いをしていた。

家族で楽しく平穏な日々を過ごしていたが、2011年3月11日に東日本大震災が発生。ほどなくして家族で地元を離れることを決意し、狭山市のアパートに移り住むこととなった。自宅は津波の被害に遭い、ほとんど流されていて跡形もない。お店も避難区域内にあったため営業することができなくなってしまった。

あの出来事から約6年が経った。今でもすべてを忘れ去ることはできないが、幾ばくかの歳月が家族の心を少しずつ癒やしていった。
終始、笑顔のたえない堀さんご家族。そんな過去を微塵も感じさせることはない。
心機一転、昨年の9月に引き渡された新しい家での暮らしをスタートさせている。

 

朗らかな笑顔が素敵な堀家の娘・真理子さん。小学生・中学生時代はスポーツ少女だったそうで、ソフトボールに明け暮れていたのだという。地域の子どもたちが集まるスポーツ少年団に所属したのが始まりだ。 チームメイトに恵まれたという真理子さん。粘り強く取り組んだ結果、中学時代には全国大会にも出場。さまざまな大会でメダルも獲得したが、東日本大震災の津波でほとんど流されてしまったんだそう。

「流された家屋の中から唯一出てきたのが、名前が入ったこのメダル。かけがえのない中学生時代の思い出が詰まっていて、このメダルを見るとその頃のことを思い出しますね」

スポーツと共に育った子供時代の思い出を語ってくれた真理子さん。応援してくれるお父さんやお母さんと大会行脚で、青森や山形、群馬、徳島などに足を運んだのも忘れられない思い出だ。 真理子さんが、この家に住み始めてから楽しんでいることも聞いてみたい。

「このお家を建てるときに、ソーラーパネル そよ風を導入しました。何といっても楽しいのは、外と室内の温度差チェックです(笑)! 室内は今の季節、朝5時頃で18℃もあって。アパートに住んでいた時は同じ時期で7℃くらいだったのでその温度差に驚いています。太陽や風の自然エネルギーを利用するシステムだそうで、寒い日でもポカポカと暖かく過ごせています。自然な陽だまりのぬくもりを感じられて、とっても心地いいですね。あとキッチンも広くなったので、料理を作るのが前より楽しくなりました。遠赤外線で調理するラジエントヒーターを使っています。焼き芋をふかすと、甘みが出てとっても美味しいです。味噌を入れた豆乳スープも作ったりしたな。料理のレパートリーも増やしていきたいですね!」

「ここに来てから台所を手伝ってくれるようになったね」

とは、母・喜久子さん。お母さんの夕飯の支度をお手伝いをしている。母娘、とっても仲良しなんですね。

「休日はお母さんとお出かけすることが多いかな。カフェ巡りが好きで、川越にある自家焙煎の珈琲屋さんに足繁く通っています」

珈琲屋さんの姉妹店ではコーヒーカップも販売しているそうで、気に入ったものがあると購入するんだそう。美しいデザインのコーヒーカップの数々。お母さんが選んだカップがお気に入りなんだとか。

 

一方、自然体で親しみやすいお人柄の母・喜久子さん。一家のムードメーカー的存在だ。故郷・福島にいたときは、お店の料理の仕込みから夜の営業まで休みなく働きながら家事もこなしていたそう! パワフルなお母さんだ。

そんな母・喜久子さんの手料理がお気に入りだという真理子さん。

「お母さんが作る料理はとにかく美味しいんです!」

今日の晩ごはんはさばの味噌煮、鶏肉のトマトソース煮、ヒラインゲンのおひたし、サラダ。

真理子さん、待ちきれない様子! 色とりどりでとっても美味しそう。こんな素敵なごはんが食べられて、うらやましいなぁ。喜久子さんの得意料理も聞きたいな。

「よく作るのは里芋の煮物かな。福島にいるときからよく作っていましたね。冬は白菜が美味しいからよく使います。白菜料理といえば、白菜、しいたけ、えび、ほたて、ばら肉を入れた中華丼はみんなから美味しいと言ってもらえますね。だいたい4、5品作り、生野菜とお味噌汁の副菜は欠かさず、バランスを考えています。献立を考えるのが大変だけど、みんな喜んでくれるからうれしいですね」

一方、真理子さんと喜久子さんの様子をニコニコしながら聞いていた父・浩喜さん。狭山で暮らし始めてからは入曽にある鮮魚店で働いているんだそう。源喜で培った技術を生かしたお仕事をされている。今でもお魚がとっても大好きだという。ところで、源喜はどんなお店だったんですか。

「自分と長男の泰輔(たいすけ)が14年前に開いたお店です。当時、泰輔も飲食店でアルバイトをしていたので、“いっしょにやらないか”って声をかけたんだ」

浩喜さんが当時を振り返る。

「家族で切り盛りした小さなお店だったな。泰輔も一緒になって魚をさばいてくれたよ。真理子も手伝ってくれたね」

浩喜さんがさばく地魚が評判だったという源喜。どんな地魚があったのだろう。とっても気になりますね!

「ドンコやアイナメが美味かったね。ドンコは見た目はよくないが、肝がとびきりおいしい。あずき色でうろこが無い魚なんだ」

東京ではなかなかお目にかかれない珍しいお魚なんですね。

「ドンコは、空揚げにしてポン酢をつけて食べるとおいしいね!アイナメは玉ねぎをみじん切りにして味噌たたきにすると、これまた、たまらないよね!」

とは母・喜久子さん。

「スズキ、シラウオ、サヨリなんかも出していたな。色々な魚を扱っていたよ。ホッキガイなんかも身が大きくてぷりぷりして美味しかった。福島の方じゃ、魚はスーパーに買いに行くのではなく、近所の人に分けてもらうものだったね。朝のとれたてだったから、色もきれいだったな」

とは父・浩喜さん。地元のお魚、美味しかったんだろうな。源喜のお品書きも気になります!

「お刺し身メインで、天ぷらも出していました。看板メニューの“毛ガニの甲羅焼き”は美味しかったねと昔のお客さんから今でも言われますね。カニみそを味つけして、マヨネーズでコーティングして焼きあげます。友人たちにまた食べたいって言われるメニューのひとつですね」

母・喜久子さんが教えてくれました。真理子さんも続ける。

「私のおすすめは、ジャガイモのチーズ焼き!とってもお酒がすすみます(笑) “おじや風茶碗蒸し”も美味しかったなぁ。ホタテを使った炊き込みご飯が底に敷き詰められていて、そのうえに茶碗蒸し、あんの順に折り重なり、てっぺんにカニ、イクラ、三つ葉が散らしてあります」

キラキラ目を輝かせながら教えてくれました!

「今思えば、地元の人たちが集まるようなお店でしたね。真理子や泰輔がスポーツをやっていたから、一緒にチームを応援していた父兄たちもお店に遊びに来てくれたり。それぞれの夫婦が友達を連れてきてくれて、どんどん輪が広がっていったね」

「みんなが酒やツマミを楽しんでいる雰囲気はすごく楽しかったね。俺は酒が飲めないからウーロン茶を飲んでいたけど(笑) 帰る時間になったら、みんなを車で家まで送ったりして。いい思い出だな」

しみじみと語ってくれた父・浩喜さん。

「福島の友人やお客さんからは、いまだに『今、何しているー?』って電話が来るんです。そんなとき、なんだかとっても懐かしくなって。お店をやっていてよかったなぁと思いますね。戻ってきてお店を再開してほしい、埼玉でお店をやってくれたら遊びにいくよーとも言われます。嬉しい限りですね」

堀さんご家族にとって、お店は天職だったんだな。

「お客さまや人とのつながりは宝物。埼玉と福島でなかなか会えなくなっても、人とのつながりを大切にしていきたいですね」

こんな風に、故郷・福島で家族楽しくお店を営んでいた堀さんご家族。昨年の9月に引き渡されたばかりの新しいお家での暮らしぶりについても聞いてみたいな。そもそも、なぜ福島から埼玉の狭山市に住もうと思ったのだろう。

「狭山市は被災者の受け入れが早かったんです。3.11から2週間後くらいには受け入れを開始していたんじゃないでしょうか。それで月内には家族で狭山のアパートに移り住みましたが、あくまで“仮住まい”の感覚でした。アパートは音とか気を使うなぁ、窮屈な感じがするなぁって家族みんなが感じていて…。やっぱり福島のときみたいな暮らしがしたいな、一軒家がいいなという話が徐々にまとまっていって、一軒家を建てるための土地探しを始めることにしたんです。狭山は福島に似た風景が広がっているなと感じていたので、第二の故郷にできそうだなという期待もありました…!」

ほどなくして見つけたのは三日月型のユニークな形の土地だった。お家を中心に、その周囲には十分なスペースのお庭が広がっている。この土地に決めたのは、お父さんの一声が大きかったんだそう。

「この三日月形の土地は、新聞の広告で見つけたんだ。福島のときは音も気にならなかったし、悠々自適に暮らしていたから、何よりも広さは大事なポイントだった。こっちの家は、隣との境がないくらい、家がぎっしりなのが辛かったからね」

「隣近所を気にせず、カーテンも窓も全部開け放っておきたいっていうのもありました。家と家が近いとそうもいかないですしね…。福島では周りへの音を気にすることもなかったし、隣近所の子供たちの騒ぎ声も全然気にならなかったね」

とは、母・喜久子さん。終始、笑いがたえない堀さんご家族。地元・福島で仲良く楽しく、のびのびと暮らしていたんだなぁ。故郷を離れても、そのとき味わった気兼ねない暮らしを実現したいとの思いがあったんですね。

「そのほかにも気になったのが、東京では何の素材でできているかわからない家が多いということでした。私は生まれてから福島で暮らしてきたので“家は木で建てるもの”というイメージが漠然とありました。また、東京の住宅メーカーはスクラップ・アンド・ビルドなイメージのところも多くて…。でも、家族の歴史を刻んでいけるような、永く大切にできるお家に住みたいなっていう想いがあったので、そういう工務店さんにお願いしたいと思っていたんです。Yutakaさんはそんな私たちの考えにシンクロした工務店さんでした…!」

とは真理子さん。

「被災してから、自分たちが食べるもの、囲まれているものへの意識が変わっていったんです。周りに流されてふらふらしていちゃだめだ、食べ物も住まいも、自分たちで選んで、自分たちで一つひとつ決めないと…と思うようになりました」

「だからこそ、素材へのこだわりがある工務店さんがいいなと思った。永くもつ家であることはもちろん、人や環境にとってにいいことを考えている会社はあるだろうかと考えたとき、自分たちが納得した素材で家を建てているYutakaさんに辿り着きました」

「Yutakaさんは流行り廃りに流されず、一つひとつの素材を選ぶにもちゃんと考え、ちゃんと向き合っている。この家の窓の樹脂サッシは、Yutakaさんが北海道まで行って、作り手やその過程を自分たちの目で見に行って選んだものなんだそうです。自分たちが納得したやり方で進めるものづくりの姿勢がとてもいいなと思いましたね」

そのほか、三日月型の土地に対して、“少し斜め”の向きに建つように考えられた設計図は、ほかにはないユニークな提案だったという。

「別の会社さんの提案では、家が隣近所と平行に並ぶ、ごく普通な配置の設計図でした。一方、Yutakaさんの提案は三日月型の土地に対して斜め向き。なんでこの向きなんだろう? って、純粋に興味深かったですね。棟梁の保さんや設計士の岩澤さんが土地を決めるときに一緒に来てくださったので聞いてみたら、隣接するお家の窓の位置や日の当たり方、風の通り方などを検討してベストな建物の配置を決めるとのことでした。建物の配置が決まったあとも、設計担当の岩澤さんはずいぶん時間かけて、一人でも何度も足を運んで設計図を考えてくれたようで…。その一生懸命さに胸が熱くなりましたね」

「他にもいいなと思ったところがあって。おばあちゃんの部屋もそうなんですが、天井は手前が10cmくらい高くなっていて、広さの感じ方がずいぶんと違ってくるんだそうです。そういう細かいところを考えてくれるのもYutakaさんならではでしたね」

Yutakaの人々の印象についても真理子さんが話してくれた。

「人と人とのつながりや、人間関係を大切にしているなって思います。Yutakaさんが企画するイベントや新しいお家の完成見学会には、Yutakaさんで家を建てたOBの方々が大勢見学にいらっしゃっていた。そういうことって、普通だとあまり考えられないですよね…。皆さん、Yutakaさんの建てるお家が大好きだし、また一つYutakaさんが手掛けたお家が誕生することが楽しみなんだろうなって。皆さん、笑顔が素敵だったし、是非この人たちにお願いしたいなって思いました」

「現場の人もみんな、いい顔しているよね…! 震災をきっかけに、なくなく故郷を離れることになって、とにかく悔しい、福島に戻れなくて悔しいって思いがずっとぬぐえなかったけど、Yutakaさんのお陰で、自分たちらしい日々をまた過ごせるようになりました。私たち家族のことを一生懸命考えてくれて、心地よいお家にしてくれたことに、心から感謝しています」

とは母・喜久子さん。真理子さんはかく続ける。

「自分たちの家は流されてしまったし、震災当初は故郷には戻れないんだなって思いが漠然とありましたが、今は町職員の方たちのご尽力のおかげで町が生き返っている最中です。最初はとても辛かったですが、割り切って楽しいことを考えて生きていこう、どうせなら笑顔で笑って過ごそうって。震災後に同じ地元の方や埼玉に来て出会った方々とお話するなかで前向きがいいなって思うようになりました」

「この家の大黒柱は、福島・会津の木をYutakaさんが手配してくれました。本当に、心から嬉しかったです。私たちのことを考えてくれているんだなって。地鎮祭のときにいただいたお守りは、この大黒柱の根元に入っています。そんな風に、たくさんの想いが詰まったお家に住むことができて、ただただ幸せですね!」

最後に、堀さんご家族がこれから楽しんでいきたいことや夢について聞いてみた。母・喜久子さんはどうでしょう。

「このお家の庭には、紅葉やヒメシャラ、アオダモ、エゴノキなどを植えました。今は冬ですが、春になり、秋になればそれぞれがもりもり葉をつけて育ってくれるのがとっても楽しみです。一番楽しみなのは、庭を四つ葉のクローバーで緑のじゅうたんにすること! これからどんどん手を入れていきたいです」

父・浩喜さんは、

「やっぱり忘れられないのは福島の地魚かな。東京ではなかなか食べられないから、そんなお店があったらいいなと思う。福島の魚が食べたいね」

祖母・松枝さんは、愛犬・カルアとの日々に胸が膨らむ。

「カルアと河原の近くまでお散歩していると、瑠璃色のきれいなカワゼミを見かけたよ。ここらへんは田んぼもあってのどかでいいところ。春になったら暖かくなるから、ポカポカお散歩を楽しみたいね!」

真理子さんはこれからの夢を語ってくれた。

「いつか飯能や日高あたりで、小さなお店を開けたらいいなと思っています。朝から晩までやっていて、身体にいい料理をふるまうような、そんなお店にできたらいいですね。自分でオリジナルメニューを考えつつ、地元の思い出料理も出せたらいいかもしれません。他の素敵なお店の食べ物も販売したりして、いいものを作る人たちとのつながりを大切にできるようなお店にできたら嬉しいですね」

地元の想い出料理がふるまわれる小さなお店。とってもたのしみだなぁ。今から開店が待ち遠しいですね!

(2017/1/21 取材・執筆/それからデザイン)

堀邸 DATA

所在地 埼玉県狭山市
お引き渡し日 2016年9月
家族構成 夫婦+娘1人+祖母
こだわりワード オール国産材、西川材、漆喰、軒下のある家

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